糸を紡ぐ蜂"Spinning Bee" ~家族のために奮闘した女性たちの物語~
糸を紡ぐ蜂Spinning Bee ―家族のために奮闘した女性たちの物語―
イントロダクション
私は古着が好きで、古着屋さんに寄っては様々な服のデザインやサイズ、強度、劣化部分などを見て、自分の身体に当てがい、気に入ったものを探す作業に喜びを見出していました。まるで宝探しでもしているかのようなこの高揚感は、身体を駆け巡り、意識せずに目と手が勝手に動くようでした。昨年の秋に、ウール素材の緑色のニットを見つけた時の嬉しさは格別で、袖を通して服を着た瞬間、丈夫な上に心地よい温かさに感動したのを今でも覚えています。今回取り上げるのは、そんな服を紡ぐ人たちの物語。早速、見ていきましょう。
「糸を紡ぐ蜂」とは?
今回の主役「糸を紡ぐ蜂」とはいったい何のことでしょうか。元々は英語 "Spinning Bee" からきています。「Spinning」とは「糸を紡ぐ」という意味で、「Bee」とは蜂とも訳せますが、人々が集まって共同で何かをする会のことを 呼ぶことがあります。たとえば、「quilting bee(キルト縫いの会)」「husking bee(トウモロコシの皮むきの会)」など。今回取り上げる「Spinning Bee」とは、当時、まだイギリスの植民地だった18世紀のアメリカで女性たちが集まって糸を紡いだ「寄り合い」のことを意味しています。
「Spinning Bee」の誕生
18世紀、ウールなどの繊維で作った製品は、イギリスにとって経済発展に大きな成長をもたらす大きな産業のひとつでした。イギリスは、英領北米植民地(のちのアメリカ合衆国となる13の植民地。以下、植民地)が生産したウールとコットンを最低価格で買い取り、本国へ輸出して製造した後、完成した商品は再び植民地へ輸出されました。当時、植民地では、イギリスから輸入した布や日用品を買うことが当たり前になっていました。このような体制が続いたことで、イギリスの商業階級だけが儲かり、植民地には利益が還元されないメカニズム(重商主義)が確立していきました。
さらにイギリスは、植民地の経済成長を抑制するために、1765年、「印刷法」を制定し、植民地の人々に重税を課します。続く1767年の「タウンゼンド諸法」では、ガラス・紙・茶など生活に直結する輸入品にも課税をしました。「代表なくして課税なし」――怒りを覚えた植民地の人々は、イギリス製品の不買運動を起こします。しかし「買わない」だけでは、衣服や布は手に入りません。そこで女性たちが立ち上がり、自分たちで作る決断をしました。
とはいえ、イギリスの効率の良い工業機械を持っていない中、どのように生産するべきかと悩んでいたところ、ほとんどの家庭には伝統的な糸車があり、糸を紡ぎ、編み、織る作業を知る女性がたくさんいました。ここから女性たちは、イギリスの工業機械に、手芸で対抗しました。
彼女たちは手芸の道具を持って、家や公会堂、図書館、教会、時には屋外の広場に集まり、朝から夜遅くまで、布や衣類を織り続けました。この集まりこそが、「Spinning Bee」 と呼ばれるようになり、イギリスに対する不服従のシンボルになりました。そこには、みんな一丸となり、公の場で蜂のように群がりながら一緒に働くことによって、「イギリス製品をボイコットしている」という政治的なメッセージを与えるようになりました。
「Spinning Bee」の思いと影響
このようにして、イギリス商品を拒否し、家族のために服を織り、着させ、生活を支えていきながら、同時にイギリスの強権を弱め、やがて歴史的にも大きな影響を与えました。アメリカ独立戦争が始まった頃には、軍に衣類や食料を供給する準備は、すでに整っていました。戦争中には、家族のために靴下やミトンを届け、セーター、コートからウールを再利用して兵士たちのためにブランケットを編み、または前線で必要なものを編んで織ったりして供給していました。
以下、ロレッタ・ナポリオーニは「編むことは力」(岩波書店)の中で、彼女たちの思いについて言及しています。
「彼女たちの役割は、家族の面倒を見ることであり、大英帝国からの独立は、家族の生活の改善であり、自由を勝ち取ることは、家族の繁栄と同義だった。女性たちは、愛する人のために、繊維の任務を背負ったが、政治的な力を得るためではなかった。」
その後、アメリカ合衆国は独立を果たしますが、それを支えた彼女たちの心から家族を思う強い気持ちが「糸を紡ぐ蜂Spinning Bee」となり、歴史を動かす大きなうねりとなりました。まさか、Beeと名の付く言葉に、こんな物語があったとは…。服に袖を通したとき、または服のぬくもりを感じた、ふとした時に、彼女たちの深い愛に思いを馳せてみたいと思います。
筆者:専務 山田
